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知っておきたい人のお話

 知っておきたい人のお話

千石の保昌どん(千石)

"上市もん"の起こり

村を支えた 正印次郎兵衛


 千石の保昌どん(千石)

上市川上流のずっとおくに、千石という村がありました。そこに"保昌どん" という家がありました。

そのむかし、平井保昌という人がいました。その人は、源頼光とともに、大 江山のおにたいじに出かけ、酒呑童子をたいじしたという、勇かんな武将です。保昌どんの家には、今も当時の連判状の写しが収蔵してあると言われています。

広野の方で、盆踊りの時に、かつては、
「一に頼光、二に渡辺よ、三に坂田の金時さまよ、四に椎たけ六郎、五に平井 の保昌どんよ、六にろくべい六郎、七に中手の大将殿の七人よ。」
と、うたわれていたそうです。

蓬沢の村で、火種がきれたりした時は、わざわざ山をこえて、年じゅう火種 をきらしたことのない、この保昌どんまで、もらい火に出かけたほどのはぶり (註1)だったそうです。

今では、千石の村も、上市川第二ダムの水の下にねむっております。


註1はぶり世間がみとめる勢力や人望。


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 "上市もん"の起こり加賀の治助

"上市もん"ということばを聞いたことがあるかのう。

これはの、"上市者"の訛った言い方での、よその土地の人が何か事があっ たときに、上市の者をさして言う呼び名なんじゃ。この呼び名はずいぶんむ かしからあったようで、今でも時たま耳にすることがある。よその人が"上 市もん"と言うときにはの、「上市の人間ちゃ、なんちゅう偉いもんよ。本 当に頼りになる」という尊敬と信頼の気持ちが、もともとはこめられておっ た。今、もともとは、と言うたんはの、最近では少し違う意味で使われるよ うになったからじゃ。

ところで"上市もん"とほめそやされるようになったんはいつごろからか、 また、どうしてかということは、記録がないから確かなことは分からんがの、 明治時代に入ってからの上市消防の、すさまじいまでの働きぶりが大きくか かわっていることだけは間違いなさそうだのう。上市消防はむかしから、そ れはそれはすばらしかったもんじゃ。

まあ、その消防の話は後でするとして、その前に、どうしても話しておき たい人物がおってのう。それは中村治助という人で、これが上市消防の育て の親とも思えるし、最初に"上市もん"と言われた人ではなかろうかとも思わ れるんじゃ。

現在、天神町の沢田牧場の近くにいくつか石碑が建っているが、その中に 「不動嶽」と書いた碑がある。それが治助の石碑で、生まれは現在の松和町 なんじゃ。むかし、江戸末期のころは、松和町から天神町にかけたあたりを、 川原町と言うておった。

この人はたいへんな力持ちでのう。体が大きく相撲も強かった。なにしろ 五斗入りの米俵を両手に一俵ずつ水平に持って、土俵のまわりを三回もまわ ったことがある。力自慢だっただけではない。頭もいいし、それに何よりも 人情家でのう、弱い人や困っている人を、命がけで助ける義侠心に富んだ人 だったんじゃ。

そんな人だったから、加賀の殿様に見いだされて、駕籠かきの親方をつと めておった。また、鳶の親分でもあった。むかしは消防のことを鳶と言うた もんでの。治助の、殿様からのかわいがられようはひととおりではなく、参 勤交代で江戸の行き来のときなどは、殿様は駕籠かきが治助でないと安心さ れんかったほどじゃった。また、まわりのだれからも「加賀の治助」と呼ば れて親しまれ尊敬されておった。ときには、「加賀獅子」と呼ばれて恐れら れもしたろうて。

さて、考えてみると不思議なのは、治助は上市の人でありながら、上市の 治助と呼ばれないで加賀の治助と呼ばれておったことよのう。それは治助が、 加賀藩内だけでなく、遠く、たとえば江戸あたりで有名になっておったから ではなかろうかのう。実はそれを裏付けるような話が語り伝えられているん じゃ。

殿様の参勤交代ともなれば、駕籠かきや荷かつぎに必要な大勢の人足を集 めねばならん。当時、人足には二とおりあっての、一つは「通し人夫」と言 うて、江戸の行き帰りはもちろん、殿様が江戸にいる間ずうっといっしょに いる人足じゃ。治助はこの通し人夫の親方だったわけよのう。もう一つは、 宿場ごとに集める「村役人足」で、これは自分の領地内だけ荷をかつぐ。

ところで、村役人足の中にも力自慢、腕自慢がたくさんおってのう、今こ そ男を売り出す絶好の機会とばかり、道中、治助に力くらべをいどんでくる 者がけっこういたんじゃ。「加賀藩には治助という、江戸に聞こえた剛の者 がおるそうな。これさえ負かしゃこのおれも」と、あの手この手と、ときに は意地の悪い手まで使ってしきりにいどんでくるのだが、治助にはどうして も勝てんかった。そして、ますます治助の名が、いたるところに広がってい ったということよ。

まだほかに、こんな話もある。

さっきも言うたように、通し人夫は、殿様が江戸にいる間一年なり二年な り、国もとの親や妻子と別れて暮らさんならん。人足たちの寝起きする場所 は仲間部屋で、退屈しのぎにすることといえば博打と相場がきまったもんで、 よその藩の人足たちもしのび込んできて、夜ごと夜ごと鉄火場(博打の場) 繰り広げられる。けんかざたもしょっちゅうで、結局は、せっかくいただい た給金もすっからかんになり、やがて国もとへ帰る時には一文なしどころか、 逆に借金さえこしらえる者も多かった。治助はこのことを苦々しく思い、な んとか博打をやめさせたいものと思うておった。

そんな治助がある夜、何を思ったか鉄火場に乗り込んで、すすんで博打に 加わった。当時は丁半賭博が盛んでの、サイコロをふって丁か半かをあてる 博打じゃ。丁は偶数、半は奇数。あたれば賭けたお金が倍になる。はずれれ ばとられる。

治助は丁と張って一両賭けた。みんなはたまげた。一両といえば大金じゃ。 それでも、丁と半の賭金がつり合わなければ勝負にならんから、おおかたは 半かたにまわった。

いざ、勝負。壷をあけると、サイの目は丁と出た。二回目には同じく丁と 張って二両賭けた。また、丁と出た。三回目も丁。四回目も・・・・・・。 しまいには全員を相手に回すことになってしもうたんじゃ。みんなは眼がつ り上がり、意地になってかかってくる。

治助は言うた。
「いつまでやってもきりがない。勝負はあと一回限りとする。ここに二十両 持っている。これを全部賭けるから、おまえら、あり金はたいてかかってこ い。」

やがて、「丁半駒がそろいました。いざ、」と声がかかった時、治助は 「待て」と制し、すっくと立って小便に行った。人足たちは顔を見合わせ、 今の間にと、壷をはぐってみた。案の定、丁と出ていた。だれ言うとなく、 「ひっくり返しておけ、半にしておけ。」

そんなことと知ってか知らずか、治助はゆうゆうともどってきた。そして、 大きな体をどすんと、地響きたてて座った。勝負の時がきた。治助の賭けは 丁。壷が払われた。なんと、サイの目は丁と出ておった。さっきの振動で再 びサイコロが、ひょこっと転がったのよ。

みんな青くなって、治助のすごさに震え上がった。やがて真っ赤になった。 青くなったり赤くなったり、くやしいやら腹が立つやら。じゃがの、仁王様 のような治助にたてつくことなどできたもんではない。しかたなくあきらめ てその場を去ろうとした人足たちに、治助は言うた。
「儲けた金は全部返してやる。ただし、国もとへ必ず持って帰ると約束する ならばじゃ。約束に背くやつは容赦はせん。」

そして、国の親や妻子がどんな気持ちで帰りを待っているか、それを考え て、今後博打はなるべく慎むようにと、しみじみ説いて聞かせたんじゃ。み んなは頭を垂れて聞き入った。治助のこの度胸の良さ、気っ風の良さに感服 し、何よりも熱意に胸打たれない者はなかった。
「ありゃ、どこのもんだい。」と、よその藩の人足たち。
「加賀藩人足頭の治助さんよ。」
「加賀藩は新川郡、上市在の生まれだとよ。」
「偉いもんだのう、上市もんは。」
と、まあ、ここで"上市もん"ということばが出たかどうかは定かでないがの、 出ても不思議はないし、だいいち、出たとしたほうが、それこそ我々上市の "もん"にとっては痛快ではないか、のう。とにかく、こういう噂というもの は、たちどころに江戸じゅう知れわたるもんじゃ。

さて、やがて時は移り、明治の世になって、藩をなくし代わりに県を置く という廃藩置県のとき、治助は殿様のもとを離れて、故郷の上市へ帰ること になった。その時殿様から、「おまえのその腕と度胸と心意気で、郷里の治 安に尽くしてくれ」と、「不動嶽」の名前とともに、纒を一本もろうたんじゃ。 その纒は今の消防署にごく最近まであったもんでのう。

上市にもどった治助は、以来、殿様からいただいた不動嶽の名で、鳶とし て、上市はもちろん、近郷近在のために力の限りを尽くした。同時に若い衆 も育て、一家を構えるまでになった。当時治助の家には、治助を慕う二〜 三十人の屈強な男たちがいつもいたもんでのう、これが火事のときには火の 中へ、川があふれれば水の中へ飛び込んで、命がけの仕事をしたもんじゃ。 その働きぶりを見て人々は"上市もん"と呼ぶようになったんではなかろうか のう。また、上市に相撲を盛んにしたのも治助の功績よ。

ともかく、これが後に、その名を近郷にとどろかせることになる上市消防 のはじまりと考えて間違いなさそうじゃ。

むかしはあっちこっちによう火災があってのう。それもひとつ火がでると、 今のようにりっぱな消防施設や武器がないから、またたく間に燃え広がって 大火になった。むかしの消防は破壊消防というて、燃え盛る炎の中へ飛び込 んで、鳶口一本を頼りに建物を一つ一つぶちこわして火をねじ伏せるやり方 じゃった。上市で「竜吐水」という、水鉄砲を大きくしたような手押しポン プを使い始めたのが明治十二年ごろからで、「腕力」という、これも手押し のポンプじゃが、これが二十八年ごろからでの、どちらも今から思えば幼稚 なものだが、それでも当時はたいへんな武器になった。

さて、消防の方法がそんな具合だから、どうしても力の強い大勢の鳶が必 要になる。上市には明治の初め、すでに百名に近いあらくれぞろいの消防組 があったんじゃ。それがいったん火の手が上がると、富山だろうと魚津だろ うと、纒を先頭に脱兎のごとくかけつける。火事場へ着けばさっそく、梯子 を伝って屋根へ飛び移る者、体に水をぶっかけて猛火の中へ踊り込む者、そ れこそ水火をいとわずじゃ。大声張り上げ、呼吸を合わせて、みるみるうち に建物をこわしていく。その荒業に群衆は眼を見張ったもんよ。

上市の消防組を見ると、よその組の鳶どもは震え上がったもんでのう。火 事になると人々は、早く上市の消防が来ないかと待った。やがて上市から隊 を組んで押し寄せると、手をたたいて喜んだもんじゃ。「上市もんが来た。 これで火が消える。」と、安堵の胸をなでおろしてのう。やがて火も消え、 大仕事をなしとげてゆうゆうと引き上げる勇ましい姿を見れば、"上市もん" の呼び名が高まるのはあたりまえのことよのう。

ところで、この消防組の偉さをいちばんよく知っているのは、なんという ても、いつも見ている地もとの者じゃ。上市の子供たちは親から、「やがて 大きくなったら、ああいう、世のため人のために尽くす勇ましいもんになれ よ。」と言われて育ち、自分でもそうなろうと心に決めてがんばったに違い ない。だからこそ後に、上市から、りっぱな政治家や教育者、軍人や商人や 相撲とりなど、たくさん出て、"上市もん"の名をますます広め高めていった んじゃ。この心意気は今もしっかり受け継がれている。

終わりに、もう一人、治助にかかわりの深い人物を紹介しようかのう。

それは荒浪というての、これまた体の大きい、相撲のめっぽう強い、それ に、なかなかの男まえじゃった。荒浪は治助の一番弟子での、後に治助の跡 を継いで荒浪一家を建てた。

明治二十七年、魚津市経田の大火の時に、上市と魚津の鳶同士の間で纒の 争いがあって、魚津の鳶に上市側が傷を負わせるという事件が起こった。そ して、上市の鳶が一人、魚津方に捕えられたんじゃ。さあ、なんとか魚津と 和解して、これを連れもどさんならん。その時、子分どもの心配をしりぞけ て、荒浪が一人で乗り込んだ。

そのいでたちは、なんともみごとなもんでのう。上り竜、下り竜の象眼の 入った金銀の刺し子のはんてんに、浜縮緬の帯をしめ、人力車にどっかと座 って、威風堂々、早月川の対岸を渡っていった。その男ぶりに、立ちはだか る魚津の鳶どもも思はず道を開いて、だれ一人手出しはできんかった。捕え られた子分を無事連れもどしたのは言うまでもないことよ。この時の衣装は 今も大切に保存されている。

まあ、これも、「上市もんはのう」と、舌を巻かせた話の一つではなかろ うかのう。

荒浪の石碑も、不動嶽の碑と並んで建っておるわい。



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 村を支えた正印次郎兵衛

正印次郎兵衛という名まえを、これまでに幾度か聞いたことがあるじゃろ う。くわしいことは分からぬが、今からおよそ三百五十年ほど前、正印村の 名主とか肝煎りとか(註1)いう家がらに生まれなさった人だそうな。

幼いころから心が優しい上に、その利発なことといったら、一を聞いて十 を知るほどだったと伝えられておる。

おっ母さんが加賀のお殿様光高公の乳母をしていなさったときのこと、人 より二倍も三倍も熱心でねばり強い次郎兵衛は、学問や剣術など、光高公が 教わることのすべてをさっさと先取りし、どんどん身につけていきなさった ということじゃ。幼心にも光高公に負けたくなかったのであろうのう。

こうして持って生まれた賢さを、さらに自分の努力によって磨きなさって のう、やがて世の中を分けへだてなく見たり、人のために役立とうと、進ん で働いたりなさる人になりなさった。

そうそう、その働きの一つに、早乙女川(上市川の旧い名)の大改修とい う有名な話があったのう。

この早乙女川というのがまた、なかなかやっかいものでのう、大雨が降る たびに氾らんして田畑を水びたしにするしまつ。付近の村々は、二、三年に 一度は水害に見舞われておったということじゃ。そのころの早乙女川は今と 違うて、極楽寺の方向から丸山下の崖に沿い、稗田、法音寺の中間を通って 正印に出、川原田で白岩川と合流しておった。しかもいくつもの分流となっ ておったから、法音寺や若杉、旧上市村一帯には、特に水害の危険が多くて のう。このことが、村思いの次郎兵衛の大きな悩みの一つとなっていたとい うことじゃ。

たしか、明暦元年(一六四五年)六月のことじゃった。時は梅雨どき。連 日の豪雨となった。早乙女川がおとなしくしているはずがない。暴れまくっ てまたまた大洪水を引き起こしたのじゃ。田植えの後、ようやく根がつき青々 とした葉が伸び始めていた田んぼは、一瞬のうちに濁流にのまれ、泥と砂利 の下になってしもうた。秋の実りを楽しみに、朝の暗がりから夕星がまたた くまで、汗水たらしてひたすら働いてきた村人たちは、あまりのひどさに体 の力がぬけてしもうて、ただぼう然とするばかりじゃった。

気の毒にのう、この年の米の収穫は、いつもの年の半分しかなかったそう じゃ。村の衆の貧しさといったらなかったそうな。腹がへっても食べるもの がないのだから、ひもじさこのうえなしよのう。

当時、村役人をしていなさった次郎兵衛は、食うや食わずの百姓たちの苦 しみを見るにつけ、ひどく心を痛めなさってのう。なんとしても水害から村 を守らねばならんと固く決心しなさった。それからというもの、今まで以上 に足しげく村を回って、土地の様子や地形について、熱心に調べなさったと いうことじゃ。

そんなある日、早乙女川が、北島の上の方から急に郷川に切れ込むという 出来事が起きたのじゃ。しかも、ひとしきり大水が流れたと思えば、急に水 が減ってみたりする。どうもいつもの洪水とは様子が違うのじゃ。不しんに 思って現地にかけつけなさった次郎兵衛は、あっと声をあげなさった。それ もそのはず、このたびの洪水の原因は柿の木だったからのう。つまり、柿の 木が根こそぎ倒れて川をふさいだ形となって水をせき止め、それが一気に郷 川へ流れ込んだというわけじゃ。

この不意の氾らんをじっと見つめていなさった次郎兵衛じゃったが、やが て、新しくできた川の流れ方について調べに行きなさった。

しばらくして帰ってきなさった次郎兵衛は村人たちに向かって、こう話し なさった。
「皆の衆、今日は柿の木のためにひどいめにあったのう。それにしても、こ うたびたび水があふれるようでは、ほんとうに困ってしまうのう。土地は荒 れるし、せっかく育てた稲や野菜は流されるし。このままではいくら骨折っ ても、楽な暮らしなどできはしない。そこで一つ相談だがのう、この早乙女 川の川筋を、このさい、思い切って変えてみては。」
「流れを変える、だって。」
「そうじゃ。今日の大水の様子を見てみなされ。せきとめられた水は、新し い川となって郷川へぬけておるのう。これは郷川が早乙女川より低い所にあ るからじゃ。つまり、早乙女川と郷川とは合流しやすい状態にあるというこ とじゃのう。早乙女川の川筋を変えることが、最も地の利に合った流れを作 ることとなってのう、洪水をくい止め、村を水害から守ることになるのじ ゃ。」
「たしかに言われるとおりじゃ。そうなりゃあ、湯上野、稗田、正印一帯に、 水害の危険が少なくなるのう。」
「ちょっと待ってくだされ。それでは、わしら上市村のものや、川筋の下の 村々は困りますわい。今までよりも水害がふえることにもなりかねませんか らのう。」
「そうじゃ、そうじゃ。どうでも川筋を変えたいなら、あの白岩川と合流さ せてほしいものじゃ。」

どちらにも言い分はあるものよのう。特に上市村の百姓たちは、次郎兵衛 が何回説得しても、不利な話だとして応じようとせぬ。さすがの次郎兵衛も、 今度ばかりはほんとうに弱りなさった。だが、そこは考え深い次郎兵衛のこ と。幾日も思案した末に一計を案じなさった。
「さて皆の衆、それぞれの村の実情は、これまでの話し合いでよう分かった。 そこで、こうしてみてはどうであろう。北島の上手を基点としてのう、郷川 と白岩川までの距離を測るのじゃ。そして、近い方の川と合流させるという 方法じゃ。今からさっそく二人の人に同時に出発してもろうて、往復の速さ を調べてみることにしよう。早く帰った方が近いという理くつなら、だれに も納得できることだからのう。川の改修工事と言えば、たくさんの土地が必 要じゃ。少しでも近い方を選んだ方が、わしらの暮らしを支える田んぼをつ ぶさずにすむというもの。これで異存はあるまいのう。」

こうして暴れ早乙女川の川筋は、北島地点から、その流れを東に移すこと となり、郷川に沿うて流れるようになったのだと伝えられておる。

当時、村人の中には、次郎兵衛に対して強い反感をもつものもかなりおっ たと聞いておる。実際のところ、森尻、大永田など川下の村々では、水の危 険がたしかに多かったのだからのう。不満が出ても、しかたがないわけじゃ。

しかし、人の営みというものは、長い目で見ていくことが大切じゃ。この 早月川の大改修にしても、見方を変えれば、こうもいえるからのう。

つまり、次郎兵衛は、土木師でもあったから、大河川合流によって起きる 大型洪水を予想して、上市川と白岩川とを別々にしなさったのかもしれん。 また、後々の水枯れのことまで心配しなさって、村々の水の便を図るため、 二つの川を引き離しなさったのかもしれん。次郎兵衛は、どれを一番の理由 として考えていなさったのか、それは分からぬ。だがわけはどうあれ、わし らの田畑は、こうして今日まで、日照りや水害から守られてきておるのじゃ。 ということは、次郎兵衛の働きはそれなりに意味があったということではな いかのう。どうじゃ。長い目で見てみると、次郎兵衛は、村の衆の気づかな いもっと深いところで、ずっと、村のいしずえとなり、百姓たちを支えてい なさったということになりそうじゃのう。

次郎兵衛は、十村(註2)の役をたしか三十年余りも務めなさった。しか も、そのほとんどが郡内に一人しかおかれぬ、ご扶持人十村(註3)であっ たと聞いておる。ひたすら村を思い、村人と共に生きなさった何よりの証拠 よのう。

次郎兵衛が亡くなり、同じく十村役であった息子甚兵衛も亡くなると、そ のみたまを、村人たちは、正印村の東、次郎兵衛杉の辺りに、浄福寺を建て てまつったということじゃ。

また、あの白萩農協の乾燥倉庫裏に残されている次郎兵衛のお墓も、村人 によって建てられたものだと聞いておる。そのころとすれば、とても大きな 墓でのう、地方ではまれにしか見られないものであったそうな。

さらに、次郎兵衛の位牌は、今でも湯崎野の守り神として、大切にされて いるのじゃ。

何しろ、当時、稗田の草刈り場でしかなかった湯崎野原に、大岩川から水 を引き、水田を作れるようにしなさったのだからのう。自分の田んぼがほし くて、この台地の開拓にきていた貧しい百姓たちにとっては、次郎兵衛が神 様に見えたのも、当然のことだわい。

稲穂がいっぱい実るこの上市平野はのう、こうして、この次郎兵衛のよう な、一生かけて働く多くの人たちによって、切り開かれてきたのじゃ。耳を すますと、次郎兵衛や村の衆の歌声が聞こえてくるようじゃのう。

うんこらうんこらうんこらしょ
草刈り台地に水がくる
汗水流して畝つくり
種まきゃ畑の土が鳴る

よいこらよいこらよいこらしょ
湯崎野荒れ地が田に変わる
米のまんまも夢じゃない
ひと鍬ごとに腕が鳴る

よいやさうれしやありがたや
湯崎野台地に稲穂がたれる
夢かうつつかこの恵み
黄金の波に胸が鳴る

註1名主・肝煎り百姓の取りまとめ役、庄屋さまのこと。
註2十村十か村ていどを受け持つ村長のような役。
註3ご扶持人十村郡内に一人おかれ、当時の新川郡十三組の十村のかんとくをする地位。


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