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桁行3間、梁行2間の桜門で、今は瓦葺であるが、元来こけら葺であった。
柱がすべて角柱で、民家や城門などと同じ作りであることなど地方色豊かな建物である。
なお、建造は元録年間(江戸中期)である。
県内唯一の木造の三重塔である。柱は丸柱で、初重に四天柱と呼ばれる柱、中央に心柱がある。
江戸時代の後半の作であるが、工作技法に古い点が見られる。特色としては、まわりに壁がなく中が丸見えである。これは建造時に財政難に陥り、壁を省略したもののようであるが、現在はそれがこの塔の特徴であり、近世の社寺建築の工法を知る上で貴重な資料となっている。
公均55才の代表作でち密な中に豪華さがただよう大力作のひとつ。
公均、晩年の作品で花鳥風月を題材とした気品ある秀作。
線描を得意とする公均の特徴をよく示す。仏画のため彩色をはばかった。
七言絶句の墨痕鮮やかな漢詩である。新川晩年の作で秀作の一つといえる。
本紙127cm、幅69.5cmの大作である。「織物の精」を思わせる純潔、繊細の気を漂わせており、作者の代表作の一つといえる。佐伯春虹は、明治42年栄町に生まれ、17才で伊東深水の門に入る。帝展入選連続4会、文展にも入選、昭和2年には、パリ万国博に日本風俗絵巻を出品するも、昭和17年33才の若さで病没した。夭折の天才画家である。
農地開発に心血をそそいだ「農業の父」椎名道三の数少ない肖像画である。江戸後期の作と考えられるが、精細な筆執で、氏の生前の姿を、今日に伝える貴重な資料である。
椎名道三は、寛政二年(1790)の生まれで、魚津の松倉村大熊の椎名道山の養子であった。
なお、建造は元録年間(江戸中期)である。
手部、頭部、胴部、後背、座からなる寄木造りの木造仏で全体に金箔が施されている。作りが非常に繊細で、高度な技術が駆使されている。祠に安置されていたこともありほとんど損傷を受けている部分がない。高さ44cmでその制作は、鎌倉時代まで遡ると考えられる。
手部、頭部、胴部からなる寄木造りの木像仏である。禅でいう結伽趺坐で座している。目は玉眼で、頭部に輪光背をもっている。全体に金箔が施されており、華やかな中に重こうな風格がある作品である。年代はその技法からみて室町時代中頃と考えられる。
手部、頭部、胴部からなる寄木造りの木像仏である。目は彫眼で彩色が施されている。高さは35cmの小品であるが当時の作風をよく残しているといえる。製作は、室町中頃と考えられる。
縦32cm、横45cmの書状、天正9年(1581?)3月、上杉景勝が越中に進入、小出城に佐々成政軍を包囲し後に帰国したが、6月にその武将、松倉城の楠川将綱はじめ五将連署して、察花・極楽寺両村の士庶に狼藉を禁止した。上杉・織田両軍の攻防が激しさを増す中、上杉軍の民心懐柔策の一こまが、読み取れる。
和紙和装の浄土真宗大谷派の講本で、江戸中期の高僧、霊唯開悟院の直筆である。本県真宗学上も貴重な資料である。
宗教集落として開かれた開谷を物語る民踊である。花笠踊り、槍踊り、刀踊り、千本突きの4種がありいずれも少年が舞うことなど舞踊の古い形を今にとどめている。
団七仇討物語、忠臣蔵五段、三段などがある。川崎音頭などに合わせて行なわれる所作事で民間歌舞伎の形態をよく残している。
花崗石に肉彫された石像である。道祖神、地蔵尊信仰の原形を物語るものと考えられる。
平らな安山岩に五輪を浮彫したもので、日照りが続くとこの石版を起こし雨ごいをした。農村における古俗をよく残している。
漆塗りのまとい状のもので、戦国時代、佐々成政が進軍する際、標頭に掲げ士気を高めたらしい。
延亨三年(1746年)に製作された町内最古の神輿である。江戸中期の特色が明確である。
多数の精細部品からなる鉾兼用屋台式組立山車で、上部舞台で歌舞伎などが演じられる。製作年代は文久三年(1863年)である。
神明町の山車と同形式の鉾兼用屋台式組立山車である。本体はケヤキで作られるが、一部にエゾ松も使用されている。制作年代は、江戸中期以降と考えられる。組部の組物に施された彫刻がみごとである。
南北約600m、東西約150mの規模の城跡である。この城は、戦国時代、新川郡一帯を領していた土肥氏の居城である。昭和55年から5ヶ年の発掘調査で数多くの遺物が出土している。
稲村地区城山の頂上、東西40m南北30mの土肥氏の山城である。
東西73m南北80mの規模で周囲に2m前後の土塁と濠を持つ土肥氏の砦である。
上市川改修、湯崎野開拓に努力した正印次郎兵衛の墓、駒形碑で安山岩で作られている。墓碑の歴史の上で貴重な資料。
立山寺開祖の大徹禅師の墓、印塔型で安山岩である。碑名には梵字が刻されている。
黒川集落の北東の山中に築かれた墓群、穴の谷霊場の西に位置する。約3000平方メートルの平坦面に、全長10mから2mの墳丘を持つ墓が40基以上、確認される。形は、方形、楕円形、円形のものの3種類であるが、上面に敷きつめられている石は、方形を意識して組まれている。埋葬は土葬、火葬骨を直接穴に埋葬したもの、珠洲焼きの瓶に入れ埋葬したものがある。当時は、一般庶民が手厚い埋葬をされることはなく、この地域を支配した豪族、あるいは僧侶など特定の階級の人々の墓であると推される。年代は出土した珠洲焼、かわらけなどから、12世紀末から百数十年間と考えられ、全国的にも極めて貴重な遺跡である。
ひいらぎは、本県において自生するものはなく、庭木としての栽培種しかなく、ひいらぎとしてはまれに見る巨木である。
中村部落の東端の道路わきにあり、高さ20mあまり、根回り4m近くの巨大な立山杉である。もとは、防風林で中村地区を風雪から守っていた。樹齢は300年以上と推定される。
暖帯性の常緑広葉樹で、古来より悪魔を払う木としてまつられている。樹齢は300年と推定される。
立山寺山門近くの杉林にある巨木である。中部以南にしか自生しないことからこの木は栽培種であると考えられる。
本堂うらの西側にある木で、もとは高さ30mあったといわれるが落雷により、現在15mほどになっている。浄徳寺の大椎と同一年代に植えられたといわれている。
樹齢400年以上と推定される古木である。根回り2.07m、高さ約10mの木で樹勢は現在も旺盛である。
本堂うらの東側にある木で高さは25mである。平地にこのような椎木が育つことは少なく貴重なものである。
日石寺の横、大岩川ぞいの県道に面して立つ巨大な木である。チャンチンは中国北西部に分布する暖帯の樹木であり、これほどの寒い地域に巨木となって育つのはきわめてめずらしい。
樹高約10m、樹齢約300年、ヒイラギ木犀としてはかなりの古木である。ヒイラギと木犀の雑種で、10月に白色の花をつけ、香木があることから、日本各地で栽培される。野崎家は、加賀藩政期に藩候の御旅所(陣屋)であり、樹齢からみて、藩侯の目にもとまった古木と解される。
樹高約15m、樹齢約300年、暖地の山中にもあるが、一般に海に近い所に多い常緑高木。この種の自成は古くから知られており、万葉集にもツママの木として所見される。本町においては、庭木として知られているが、これほどの巨木もめずらしい。