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大岩山日石寺(由来)


本文

ページID:0002054 更新日:2022年12月26日更新 印刷ページ表示

由来

ご本体石物は聖武天皇神亀2年7月(725年)奈良朝末、平安初期の高僧行基菩薩の作である。全国磨崖仏における石仏の最大傑作は特に大岩日石寺石仏本尊不動明王の像であって、凝灰岩の大岩に半肉彫りで彫り出した磨崖仏は右手に「降鷹」の剣をとり、左手に「三昧」の羂索(けんさく)を持っている。又不動像は3m余の巨体に、上体は幅広く、膝の張りをむかえ、右腕なども上膊をとり太く彫られ、いかにも下から仰ぐことを意識したつくりで、それが像に独特の迫力を与え、大きめの頭部にはやはり大ぶりの眼鼻だちを明確に刻んで、いかにも忿怒尊らしい威容を示しているのが特徴である。

この不動明王を中心として、右に矜羯羅(こんがら)童子、左に制咤迦(せいたか)童子、不動明王と矜羯羅童子との間に阿弥陀如来座像、不動明王と制咤迦童子との間には行基菩薩と伝えられる僧形坐像が彫られ、僧形二像はいづれも表現の上から不動三像と異なり、彫り出された位置から平安朝末期乃至鎌倉時代に追刻されたものと推定される。

また、不動明王三尊は立山・剱岳の神の本地仏として、阿弥陀如来は立山の神とし、伝行基は立山の開山慈興または慈朝をを示すものであろうという説もある。

大岩山は古代新川郡内の大社として21の末社を有し、30の坊社と1,000有余の僧兵をもち、真言密教の展開が修験道となり、立山信仰の所産として隆盛を極めたが、天正年間上杉勢越中平定の兵火に罹り、制咤迦童子と行基菩薩坐像は破損を受けている。慶長年間に至り、弘寒(こうかん)上人大岩山中興の祖として仮殿を設け不動明王他四体を供養し、爾来幾星霜慶安4年加賀大守3代利常公が願意感応に歓喜し祈願所と定め、不動堂を建立、不動明王は信仰の中心として風雪にさらされることなく覆堂によって保護されていたが、昭和42年の火災で焼失し、現在の不動堂は昭和43年文化財保存施設事業として、文化庁・大蔵省免税措置。日石寺信徒によって建立されたものである。

大岩山日石寺石仏 不動明王 [国指定重要文化財](昭和5年7月8日指定)

大岩山日石寺石仏 不動明王の画像
この石仏は、真言密宗の総本山日石寺の本尊として全国の信者の帰依を集めています。中央に不動明王座像、左右に制咤迦(せいたか)童子立像、矜羯羅(こんがら)童子立像、阿弥陀如来座像、行基菩薩座像が凝灰岩の巨岩に半肉彫りで彫り出されており、中部地方における最高傑作として高い評価を得ています。
作は藤原時代(平安時代中頃)と考えられますが、行基菩薩座像はややおくれて彫りだされたものと思われます。
不動明王座像は右手に力を現わす剣、左手に智を現わす羂索(けんさく)を持つ迫力ある芸術です。室町時代、上杉勢の兵火に、昭和42年に火事にあいましたが、ほとんど損傷をうけることなく今日まで残っています。

大岩山日石寺三重塔 [町指定有形文化財]

大岩山日石寺三重塔 [町指定有形文化財]の画像1大岩山日石寺三重塔 [町指定有形文化財]の画像2
県で最も歴史のある唯一の木造の三重塔です。柱は丸柱で、初重に四天柱と呼ばれる柱、中央に心柱があります。江戸時代の後半の作ですが、工作技法に古い点が見られます。
特色としては、まわりに壁がなく中が丸見えです。これは、建造時に財政難に陥り壁を省略したもののようです。
現在は、近世の社寺建築の工法を知る上で貴重な資料となっています。

大岩山日石寺の藤水

大岩山日石寺の藤水の画像
「大岩山日石寺の藤水」は富山の名水百選に選ばれています。
不動明王の厳石を廻り出る御霊水は、眼病平癒に霊験あり、諸人の願いに御利益があるとされています。